回顧 ー 平凡な日常の幸せ

 思い返せば一年前の2016年4月14日、その日から二晩続けて、友人から依頼された初対面の外国人夫婦が我が家に泊まることになっていました。




 彼らが我が家で過ごす一泊目の晩、午後9時過ぎ、そう、それは突然起こりました。

 熊本地震です。かつては本震と呼ばれ、のちに前震と名前の変わったそれです。

 我が家には、120cm水槽がリビングに置いてあります。熊本地震の最初の大揺れで、満杯に入っていたその水があふれ出し、リビングは洪水になってしまいました。彼らの休む部屋にまで一部水が浸入。洪水の後始末や地震で散乱した物の後片づけなどを、客人に手伝ってもらうことになるとは。

 その後も大きな余震が繰り返し起き、彼らも私たちも十分眠ることができませんでした。彼らが熊本で過ごす最初の晩に未曽有の大地震が起きるなんて。




 翌朝、客人たちはテレビのニュースで、前日まで堂々たる姿を見せていた熊本城が壊れている様子を見て、非常に驚いていました。一日目に熊本城観光を楽しんでいたのです。※でもこの時は今ほど壊れていませんでした。

 この大地震のせいで、新幹線は脱線し、全面運休。在来線も点検のため全面運休。しかし在来線だけは、明朝からは通常運行に戻るということだったので、それを利用して、彼らの次の滞在地・福岡まで移動できればいいと考えていました。




 しかし彼らにとっての二泊目、2016年4月16日の未明、それは突然起きました。

 熊本地震の本震です。


 最初にズドンと上に突き上げる衝撃、その後は激しい横揺れ。私は動けなくなっている妻を身を隠せる陰に引っ張りこみます。マジで家が倒壊するかもしれないと思いました。停電が発生し、辺りは真っ暗闇になりました。私たちが休んでいた部屋は本や書類、置物などが散乱し、足の踏み場もない状況と化してしまいました。真っ暗闇の中で、行く手を阻む転倒した家具。部屋をすぐに出ることさえできません。物をかき分け、やっとのことで部屋のドアまでたどり着くと、客人たちも血相を変えて部屋から出てきました。断続的に強弱をつけて続く揺れ。懐中電灯の明かりを頼りに、まずは彼らを安全だと言われるトイレに有無を言わせず押しこめました。もう次から次に襲ってくる地震波。これは外に出た方が良いと判断し、弱まったすきを見て、彼らを我が家の駐車場に連れ出しました。我ながらかなり冷静でした。


 真夜中なのに、外には近所の方々も次々と出てきていました。急いで避難する人々も。外に出てからも地震は何度も何度もやってきます。やがて電気が戻ってきました。


 停電から回復したのち、強い余震に警戒しながら家の中に戻ってみると、あらゆるものが倒れたり飛び出したりして部屋の中はぐちゃぐちゃ。短い間隔で繰り返し襲ってくる余震。時には本震より少し弱いだけの余震もやってきます。これは家の中で過ごすのは危ないと考えました。


 真夜中なのにどんどん赤みを増す夜空。火事なのか街の灯りなのかよく分かりません。


 結局、客人と私たち家族は車の中で一夜を過ごすことになりました。たまたま旅行で熊本に来て、一度ならぬ二度も激震に見舞われ、恐怖におびえ、車中泊をすることになるとは、彼らはきっと予想だにしなかったことでしょう。もちろん私たちも、いえ、だれもこんなことになるとは予想できなかったに違いありません。
 この晩、近所の方々も、駐車場のそれぞれの車の中で、眠れぬ夜を過ごしました。こんな経験は生涯で初めてです。
 たびたび来る余震で、車ごとひどく揺れます。激しい余震が来るたびによみがえる最初の恐怖。



 この状況では、朝から動く予定だった在来線さえ動かなくなるでしょう。どうやって彼らを福岡に移動させるか。これ以上客人に震災の苦しみを味わわせてはいけないと思い、夜中の3時過ぎに隣りの福岡県に住む弟にメールを送りました。「起きてる?」と。前震の際そこもひどい揺れだったと聞いていたからです。今回もたぶんひどく揺れているはず。
 弟は起きていました。前震のすぐ後に、自分にできることがあれば飛んで行くよ、と何度も連絡してきていた弟は確かに起きていました。電話をすぐに掛け、こちらの事情と私たちが考えた作戦を話すと、彼は快く受け入れてくれました。

 電気は来ているのですが、断水が発生しました。この後断水は1週間続くことになります。これが結構大変でした。飲料水をもらうのに長蛇の列。でも、そんな時役立ったのが、私が数年前に自力で掘った打ち抜き井戸。地震後に濁りがひどくなり、砂もたくさん上がってくるようになりましたが、トイレを流すのには問題ありませんでした。これもなかったらトイレも流せません

 ほとんど眠れていないはずなのに、震災後の後片付けを一生懸命手伝ってくれる客人たち。突然降りかかった災難に何の不満も言わず黙々とやってくれます。私たちはいつでも逃げられる服装で過ごします。

 台所がぐちゃぐちゃで使えないので、被害の少なかった仕事場で朝食を食べます。ホットプレートで調理。ウインナーや目玉焼き、前日商品の少なくなったお店でやっと買えたナンを焼いて食べます。

 仕事場の掛け時計を見ると、それは止まっていました。しかもよく見ると、未明の1時25分。そう、それは本震がちょうど発生した時間。原爆投下時に止まったままの時計を思い出しました。あの大きな揺れで乾電池の1個が外れてしまったためでした。

 食事をしながら、彼らに今日の計画を説明します。この熊本の地から福岡へ脱出する方法を。




 お昼頃、待ちに待った弟が我が家にやってきました。彼はあの未明の電話のあとすぐ、24時間営業の店に行って、パンと飲料水をできるだけ多く買ったようです。隣県であるにもかかわらず、すでに弟の住む都市でもパンや水がどんどん減っている状況だったようです。

 彼はこれから必要となるであろう物資をわざわざ運んでくれたのです。しかも通常は1時間半ほどで行ける道のりを、渋滞の中3時間半もかけて。私たちにとっての最初の‟救援隊”でした。

 そして彼は休む間もなく戻っていきます。今度はアメリカ人を二人乗せて。彼のもう一つの任務は、この客人たちを福岡に送り届ける中継をすること。弟は自分の住む市まで彼らを乗せていきます。そこに福岡市内のホストファミリーが迎えに来るのです。

 別れ際に、くしくも同じ震災を経験する羽目になった客人たちと記念撮影をしました。私たちは強くハグし合いました。彼らにとっては、熊本には地震に遭いにきたようなものです。弟の無私の働きで、二重の目的を持つミッションは無事成功しました。

 2016年2月16日の出来事。



 そして、2017年4月16日

自宅で晩酌をしながらゆったり過ごせる。
電気がついて、蛇口からは当たり前に水が出る。
ガスで風呂も沸かせる。
トイレも気を遣わず自由に使える。
体を伸ばして眠りにつける。
家族の笑顔がある。
 
なんのことはない日常に幸せを感じます。